武道、格闘技を勉強していると、よく話題になるのが、実戦だとどの格闘技が一番強いのか?という話だ。
たとえば体育館で、審判がいて、用意ドンで殴りっこをするのであれば、極真空手みたいなのが一番強そうだ。
古い話だが、極真の第3回世界大会で、松井章圭(現極真館長)と、今は亡きアンディ・フグが決勝で戦ったことがあった。
そのときアンディが放ったパンチが松井の顔面にヒットし、松井が一瞬意識を失って崩れ、試合が中断するというアクシデントがあった。
極真のルールでは、顔面パンチは反則だ。アンディは、負けた。
でも、いわゆる実戦の世界では、アンディの勝ちだという見方も出来る。
彼は、フランスのプロキックボクシングという世界で、顔面攻撃ありという厳しいルールの中で勝負を重ねて来た選手だ。最初から顔面容認のルールで戦ったとしても、松井に、アンディの経験に勝るほどの、勝負を決するテクニックがあったとは思えない。
フェラーリとスバルインプレッサとは、どちらが速いだろうか。
答えは、未舗装路を含むダートラリーでは間違いなくインプレッサ、サーキットでは、フェラーリが速い。
つまり、ルールと場所で、勝者は変わるという事だ。
レイ・チャールズと北島三郎、どっちが歌が上手いだろうか。これも、意味のない比較だ。
格闘技、武道の世界には、これに類するような無意味な比較をすぐにしたがる悪いクセがある。
正しくは、身に付いた技術をどう活かせるか、人の質に注目すべきじゃないのだろうか。
僕らは、例えば夜の中洲のちょっと暗いところで、ヤ業の方相手に実戦スタイルで戦えるだろうか。
現代日本で、一番あり得る”実戦”のシチュエーションは、まあこんなところだろう。
相手は一人とは限らないぞ。刃物、多分持っているぞ(彼らは絶対に負けられないからね)。
こんな勝負、僕はごめん被りたい。力道山は、名もなきチンピラの凶刃に命を落としているし、そんな実戦には何の意味もない。
「いや、格闘技というスタイルに拘っての実戦」という条件付けをされるかも知れない。
なるほどもっともらしく聞こえるが、よく考えてみればそれは、サブちゃんにポップスを歌わせて評価をするのと同じくらいに意味がない。
流派を超えて、おそらく日本で一番尊敬されている格闘家・故塩田剛三先生。