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芥川龍之介とわたし

大抵の人は、おそらく中学生くらいの時に爆発的に本を読みたくなると思います。
自我が目覚め、心がぐっと成長を始めて、脳がむずがゆくなるんですね。本や音楽、映画など、他人の知的生産物に片っ端から触れてみて、何か示唆を得ようとしてしまう。僕もそうでした。

で、とうとう僕も、生き方を決定づけられるような作品と出会ってしまうわけです。
僕の場合それは、芥川龍之介の『侏儒の言葉』でした。
『侏儒の言葉』とは、今で言う、twitter風に、芥川が思った事を一言、二言づつ連綿と書きつづっている随筆集です。
ストーリーも何も無いものなんですが、それだけに芥川という作家の、物の見方がストレートに頭に入ってくる危険な作品でした(今にして思えば)。

いろいろ含蓄のある言葉がてんこ盛りに書かれているのですが、その中で一番衝撃を受けたのは、善悪と好嫌はちがう、という事です。
自分の好き嫌いを、あたかも善悪のように思い込んで物事を判断しているんじゃないのかという彼自身の自戒の言葉なんですが、あーそうなんだ、そういう見方もあるんだ、と、これはその時以来ずうっと僕の中に響いています。
社会正義に基づいて、他人を注意して差し上げているようですが、それは正義でも何でもなくて、貴方がそういうのを嫌いなだけなんでしょ?という事です。
ここをしっかりと見極めないと、他人は絶対に賛同してくれない。言うことは聞いてくれても、納得は得られず、心は離れていく。
私の”好き”を正義の名のもとに、他人に押し付けてはいないか、年を取るほどに、社会的な立場が上がるほどに注意を強めたいと思っています。

しかしシニカルな男だと思う、芥川という人は。共感は出来ても、尊敬は出来ないな。

昭和27年(晩年)の芥川龍之介 - YouTube

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2010年04月10日 16:14に投稿されたエントリーのページです。

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