不正な食材というものがある。産地偽装や、使っちゃいけない薬品で汚染されていたり
病気などで不健康だったりと、様々だ。最近はわざと、食えないものを混ぜて
食べ物だと売り散らかしている例もある。
そこで思うのは、一番被害を被っているのは誰だろう、ということ。
それは、売り手でもない、買い手でもない、他ならぬ食材達そのものだと思う。
たとえば豚だって構わない。食材用にこの世に生を受け、多分悪い事なんてやらずに
生きてきて、本人の意思の働かないところで殺されて、宿命としてバラ肉になり、スーパーに並ぶ。
ひょっとしたら、もっと生きたかったのかも知れない。せめて2世でも遺しておこうと
(たとえそれが知性の働きではなく、生物としての本能的な欲求からでた望みであったとしても)
夢を抱いていたのかも知れない。
しかし、食材として生み出され、養豚場で飼われてきた以上、
本人の気持ちとは関係無しにある時期が来れば屠殺される。
これだけでももう、涙ものだ。
だから我々は、いただきますと手を合わせ、犠牲としなければならなかった生き物に
感謝をする。美味しいと食べてあげる事が供養であり、命に対するあるべき姿勢だと思う。
ところが、これで食べてもらえないとすると、死んでいった生き物達は浮かばれないだろう。
自らの意思とは関係無しに殺され、そのうえ不味い、太ると文句をつけられたり、
挙句の果て食べられもせずに危険だ、不正だ、ばばっちいと捨てられるなんて、
踏んだり蹴ったりだ。
僕が豚なら、冗談じゃないよと化けて出る。
松坂牛も豚バラの安いところでも、仏心の前では皆平等、高い安いは市場の論理だというのは、
漫画美味しんぼに出てくる至言だ。旨い不味いに至っては、個人の好みに合致しているか
どうかに過ぎない。
ただそれでも、旨い不味いについては僕の中の大きな関心事の一つだ。
それは、旨い!という結果は、旨くしてやろうという人の働きがあるからだ。その働きに対して、
僕は頭が下がる。
また、これとこれを掛け合わせて熱を加えてやれば旨くなる、という神の方程式に対する
素直な驚嘆でもある。鴨肉にオレンジソース、牛肉におろしタレ、トマトジュースにタバスコ
・・・発見した人のアイディアに頭が下がるとともに、
鴨+オレンジ=旨い、という方程式をそっとこの世に忍ばせた
神様の粋な茶目っ気が面白い。